スタイルを確認するために、Markdown記法をサンプルとして記載する。
本文は、青空文庫から「芥川龍之介 - 本所両国」を借用。【青空文庫 ルビ削除ツールα版】を使わせてもらった。
見出し [h1]⚓︎
[h1]見出しはページ内で一つ。そうしないと右側のページ内目次が出てこない。
大溝[h2]⚓︎
僕は本所界隈のことをスケッチしろという社命を受け、同じ社のO君と一しょに久振りに本所へ出かけて行った。今その印象記を書くのに当り、本所両国と題したのは或は意味を成していないかも知れない。しかしなぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂っていることは確かである。そこでO君とも相談の上、ちょっと電車の方向板じみた本所両国という題を用いることにした。――
僕は生れてから[h3]⚓︎
二十歳頃までずっと本所に住んでいた者である。明治二、三十年代の本所は今日のような工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的多勢住んでいた町である。従って何処を歩いて見ても、日本橋や京橋のように大商店の並んだ往来などはなかった。
若しその中に少しでもにぎやかな通りを求めるとすれば、それは僅かに両国から亀沢町に至る元町通りか、或は二の橋から亀沢町に至る二つ目通り位なものだったであろう。勿論その外に石原通りや法恩寺橋通りにも低い瓦屋根の商店は軒を並べていたのに違いない。しかし
広い「お竹倉」[h4]⚓︎
をはじめ、「伊達様」「津軽様」などという大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけていた。……
殊に僕の住んでいたのは「お竹倉」に近い小泉町である。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠に変ってしまった。しかし
僕の小学時代[h5]⚓︎
にはまだ「大溝」にかこまれた、雑木林や竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だった。「大溝」とはその名の示す通り少くとも一間半あまりの溝のことである。
この溝は僕の知っていた頃にはもう黒い泥水をどろりと淀ませているばかりだった。(僕はそこへ金魚にやるぼうふらをすくいに行ったことをきのうのように覚えている。)しかし「御維新」以前には溝よりも堀に近かったのであろう。
僕の叔父は[h6]⚓︎
十何歳かの時に年にも似合わない大小を差し、この溝の前にしゃがんだまま、長い釣竿をのばしていた。すると誰か叔父の刀にぴしりと鞘当てをしかけた者があった。叔父は勿論むっとして肩越しに相手を振返ってみた。
僕の一家一族の内にもこの叔父程負けぬ気の強かった者はない。
こういう叔父はこの時にも相手によって売られた喧嘩を買う位の勇気は持っていたであろう。が、相手は誰かと思うと、朱鞘の大小をかんぬき差しに差した身の丈抜群の侍だった。しかも誰にも恐れられていた「新徴組」の一人に違いなかった。かれは叔父を尻目にかけながら、にやにや笑って歩いていた。叔父はかれを一目見たぎり、二度と長い釣竿の先から目をあげずにいたとかいうことである。……
リスト⚓︎
※処理にバグがありそうな気が…
- 番号リストLv1
-
番号リストLv1
- 番号リストLv2
- testLv2
- さらにテストLv3
- テストLv3
- これもテストLv4
- これもLv4
-
これは番号なしの記述。間に空行を開けても、番号リストが続く(なんで?)
-
これも番号なし
- 番号なしのLv2。これだとただの点(・)になる。
- 番号なしのLv2
- 番号なしのLv3
-
空行開けてのチェックリスト
- チェックリスト
- チェックリストLv2
- チェックリストLv3
- チェックリストLv4
- チェックリストLv3
- チェックリストLv2
※空行があると、異なるリストとして扱ってほしいが、どうもそういう動きをしていない。順番を逆に始めると、後から来る番号リストがただの点(・)リストになる。これは間に文字を入れると解消する。
- 番号リストLv1
- 番号リストLv1
- 番号リストLv2
- testLv2
- さらにテストLv3
- テストLv3
- これもテストLv4
- これもLv4
※間に文字列を入れる。
- これは番号なし
-
これも番号なし
- 番号なしのLv2
- 番号なしのLv2
- 番号なしのLv3
-
空行開けてのチェックリスト
- チェックリスト
- チェックリストLv2
- チェックリストLv3
- チェックリストLv4
- チェックリストLv3
- チェックリストLv2
文字装飾⚓︎
強調⚓︎
僕は小学時代にも 「大溝」 のそばを通る度に この叔父 の話を思い出した。
打ち消し線⚓︎
叔父は「御維新」以前には 新刀無念流 の剣客だった。
引用⚓︎
(叔父が安房上総へ武者修行に出かけ、二刀流の剣客と試合をした話も矢張り僕を喜ばせたものである。) それから「御維新」前後には彰義隊に加わる志を持っていた。
最後に僕の知っている頃には年をとった猫背の測量技師だった。 「大溝」は今日の本所にはない。
叔父もまた大正の末年に食道癌を病んで死んでしまった。 本所の印象記の一節にこういうことを加えるのは或は私事に及び過ぎるのであろう。
しかし僕はO君と一しょに両国橋を渡りながら大川の向うに立ち並んだ無数のバラックを眺めた時には実際烈しい流転の相に驚かない訳には行かなかった。
僕の「大溝」を思い出したり、その又「大溝」に釣をしていた叔父を思い出したりすることも、必ずしも偶然ではないのである。
両国
両国の鉄橋は震災前と変らないといっても差支えない。
斜体⚓︎
ただ鉄の欄干の一部は みすぼらしい木造 に変っていた。
コードのインライン表示⚓︎
この鉄橋の出来たのはまだ 僕の小学時代
である。
挿入⚓︎
リンク⚓︎
しかし 櫛形の鉄橋 には懐古の情も起って来ない。
コードブロック⚓︎
僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜を感じている。
それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかかっていた。
僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や蘆の茂った中洲を眺めたりした。
中洲に茂った蘆は勿論、「百本杭」も今は残っていない。
画像埋め込み⚓︎
水平線⚓︎
テーブル⚓︎
left | right | center |
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「百本杭」はその名の示す通り、 | 河岸に近い水の中に | 何本も |
立っていた乱杭である。 | 昔の芝居は | 殺し場などに多田の薬師の石切場と |
一しょに度々 | この人通りの少ない「百本杭」の | 河岸を使っていた。 |